2005年10月25日

不幸な脅迫ジャーナリズム

 休日、朝からニュース番組を続いて見た。
 小一時間見ていれば大体、どんな事件が起こっているのか分かるし、それ以上は見る必要がない。それというのも、報道がリフレインしているからだ。
 同じ局から同じニュースがキャスターが交代で読み上げられる。実はこいつらの練習につき合わされているのではないかと疑いたくなってくる。
 何度も同じ事件の報道。すでにこの家庭にはお伝えした情報であるか、どうか何てどうでもいい。とにかく皆が重大と口にしたから、同じように読み上げているのだといわんばかりに。
 ひどくなると、他局と同じ時間に同じ事件を報道していることもある。
 横並び報道。おいおい大本営発表を鵜呑みにした功罪をもっともらしく、語っていたのはどこのどいつなんだ。
 扱う事件はいずれも凶悪であったり、悲観的なものばかり。
 どうやら日本で起こる事件の圧倒的多数は、不幸で陰惨なものばかりで、それしかニュースがないらしい。そんな気がしてくる。
 時たま好感度の高いタレントや、有名人に祝い事があると、コメンテーターはいう。
「暗いニュースばかりなんで、こういうことは嬉しいですね」
 ご冗談を。暗い話ばかり取り上げてきておいて、それはないだろう。明らかに自作自演ではないか。
 確かに幼稚園の園児たちが老人ホームでボランティアを行ったという話題をトップニュースにするほど、我々は幸福に飢えていない。
 しかし今週はどんな凶悪な青年が登場してくれるのか、心待ちにしているのも不自由な感性としかいえない。
 安易な幸福は頂けないが、安易なセンチメンタリズムも同様だろう。
 日本人は陽気ではない。確かにご陽気な東海道中膝栗毛より、滅ぶために戦った赤穂義士を好む。
 だからといって日常的に不幸を求めているのも、不幸な心性ではないだろうか。
 お手軽な悲観主義はお手軽な不幸話を求めている。それに対して、実際の事件はどうあれ、従順に応えようとしているのが、テレビ報道ではないだろうか。
 小学生の折、一億人総白痴といった言葉が問題になった。
 その危機感は次第に麻痺し、今や大の大人がこぞって悲劇的で悲観的な言葉を待ち望んでいる。いや、悲観的であることが大人であるかのように語られる。
 何のことはない、隣人の不幸を心待ちにしているムラ社会の発想と同じ、幼稚で陰湿なだけなのだが。
 テレビは人をバカにする。
 小学生の当時言われてきたことが、今はよく分かる。
 もっともそれはテレビでは取り上げられない、悲劇的な事実だ。
posted by 天狗丸 at 00:00| Comment(0) | 怒りの矛先 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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