例えばこんな文章。
多様化するクライアントのニーズに対応して、メーカーもオーダーメイドのシステムを確立していくことが、トレンドとなっている。
意味は大体分かる。顧客の要求は多様化しているから、製造業はそれに対応できる体制を準備するのが流行になっているということだ。
しかし文面をよく見ると、カタカナばかりで一体何語なのか。
国立国語研究所の中間発表が公表され、その中で多くの日本語に言い換えるべき例が示された。
アミューズメントは娯楽に。ワークシェアリングは仕事の分かち合いに。
実際多くの英語、もしくは誤用のカタカナ語が使用され、日本語として非常に難解になっている。
というより、本来日本語に該当する言葉があるにも関わらず、カタカナで新しい概念かのように、使用されているのだ。
例えば数年前に流行したCS=カスタマー・サティスファクション(顧客満足)。
もともと九十年代のアメリカで作られた、顧客重視を目的とした概念だが、その起源はというと、自動車産業で名を馳せた日本式商法がある。
つまりお客様第一主義なのだ。
しかしそれでは名称としてダサい。お客様は神様ですというより、カスタマー・サティスファクションといった方がカッチョいい。
我々の日常で多くのカタカナが使用され、それらの誤用について、したり顔のアメリカ通は言いたがる。
だが、それも文化と言うべきではないか。
中国ではテレビジョンを電波受信装置と翻訳するしかできないが、日本人はテレビと省略して、国語にしてきた。
数年前台湾に旅行したが、テレビでは字幕にcool的と表記されていたように、音を直接表記していた。表音文字がないための宿命である。
その点、日本語は便利で製造業の躍進に表音文字が活躍したという。
それだから文化として、誤用も認識されるべきである。
日本でショベルカーのことをユンボと総称するように、トルコではインスタントコーヒーのことをネスカフェという。
つまり誤用文化なのだ。
だからカタカナ語も文化である。と思っていた。
しかしどうなんだろう。
内閣府の主催する地域住民との懇話会は、タウン・ミーティング。
政権公約という日本語をなぜかカタカナ表記するマニュフェスト。
それらが流行といってしまえばそれまでだが、流行という以上、時間が経てば自然とダサくなってしまう。事実すでに滑稽である。
明治時代、Godは神、Freedomを自由に翻訳した。
その翻訳は現在でも使用されている、焦点のズレが少ない名訳ではないか。
それらのセンスを軽蔑し、音訳していくのはやっぱり一過性の代物だ。
我々の祖先が捻出した翻訳技術。すでにある語彙を流用したり、新たに造語を設けてもいいではないか。それを短絡的にカタカナ表記するのは、長期的には優れた方法ではないのだ。
確かに立体録音という単語は廃れ、ステレオという単語が主流である。
しかしこうした努力の継続こそ、日本人が外来文化を認識するためには重要なことではないか。努力の中に初めて文化があるのではないか。
カタカナ表記を何となく使用する。それだけでは結局意味を消化不良のまま放置しては、子孫の嘲笑を買うだけだろう。
国語研究所によって国語は統制されるものではなく、変化し続けるものであると言ってしまえば、それもありだろうが、それでは言葉を、意味を、概念を正確に共有しようという姿勢にかけるものではないか。
言葉が絶えず変化するといって、放置していい理由にはならない。変化するからこそ、翻訳し消化し続けなければならないのではないか。
2005年10月23日
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