2008年11月26日

神々への感謝祭

 勤労感謝の日というのフレーズ自体、胡散臭い。まるで「〜を考える市民の会」みたいに、偽善臭い。

 つまり「きんろうかんしゃ」という言葉が、我々日本人の言葉ではないからだ。いかにも漢字表記されて、日本に昔からあるようだが、定められたのは昭和二十三年。戦後の話である。それまでは新嘗祭(にいなめさい)だった。

 しかしこの新嘗祭といっても、やはりピンとこない。

 神さまと天皇が、今年収穫した新米を天照大神に備え、ともに食する祭り。

 今年一年が無事でした報告と、来年の豊作を祈る儀式なのだ。

 つまり神聖王としての天皇の役割が、ここで発揮される。

 これを一般化しようとしたのが、戦前の新嘗祭であり、現在の勤労感謝の日である。では誰に感謝すべきか。

 かつての歴代天皇はそれを祖先天照大神に感謝した。

 八百万の神々のトップに立つ、太陽の女神に対して、子孫が感謝するのだ。

 では、我々は誰に感謝すべきか。

 近代の国民国家として、いや戦後の自由主義からして、祖先に感謝するのは無粋かもしれない。ましてや国家神道という負の緯線の延長にあるような、神社に感謝するなど、軍国主義につながる。

 などと考えるのは果たして、自由なのだろうか? どうも窮屈で、軽薄で、退屈である。

 我々の祖先がそうであったように、我々もまた祖先と天神地祇に祈って、来年の豊穣を願うしかない。

 ところがだ。

 若者の就業率たるや、今や直視に耐えない。目も当てられないものである。

 「勤労感謝」とは程遠いところに、二十台の若者が沢山いてるのだ。食い扶持にありつけない若者たち。

 若いうちの苦労は買ってでもしろというが、それは単純に貧乏体験の話だけだったのか。貧乏を耐え忍ぶことだけが、人生の困難なのだろうか。世界はそんなに単純なのだろうか。それこそいささか経済成長率崇拝に傾き過ぎた発想じゃないだろうか。

 まずは景気だというが、それ以外にあのダミ声とっちゃん総理が、何かを考えているようには思えない。

 若者が生存できない社会。どうなっているのだ。

 ハロー・ワークでの求職活動は、ひどいものである。最初から雇用するつもりなどなく、まぐれでいい人材を求人広告出さずに手に入れようという怠け者の経営者しか使わないから、ロクな仕事が集まらない。ハロー・ワークに通う若い人がいたら、率直に言いたい。お宅、ヒマなのかと。

 行政がまともに働いたことが一度でもあったのか。連中が動くのは、破綻した銀行に公的資金を融資する時ぐらいで、後は死人が出ても動かないじゃないか。

 民間の人材紹介会社(搾取元、派遣会社ではない)を沢山調べ、沢山登録し、沢山勉強するきっかけを作っていくしかない。

 そして我々大人も、表層的でアホな一本調子にマスコミに踊らされるのを止めないか。

 つまりニートと呼ばれる若者たちは、バブル期のように自分探しを続けており、ちょっとした困難にすぐ挫けてしまうとか、本気で叱られたことがなく、根性がないとか。

 そうした若者イメージこそ、短絡的に現状を結論づけるためのマスコミが用意した、いつもの陳腐な雛型ではないか。

 それが全体の本質をついていると信じるのは、まるでとある民族が世界制服を企んでいると主張するようなものである。それは絵描き崩れの妄想であって、事実ではない。

 若者に対して寛容であろうとしても、できることなど知れている。若者こそ我々の未来であることは事実であるが、手助けできることは限られている。

 だが、一つだけ具体的にあげるとしたら、明確なものがあるのではないか。

 つまり若者の就職率を、アメリカのお呪い程度の景気動向に全面依存するのではなく、我々納税者と若者に税金を有効に使えるビジョンを持った連中に投票することではないだろうか。

 我々は働いている。隣の若者に就職の相談に乗る時間はちょっと、用意できそうにない。

 だが、それをもって未来を諦めろというのは、余りに惨めな社会だ。まだ戦前の社会の方が、豊穣な思いやりに満ちていたのではないか。だとすれば、少なくとも我々にできること、例えば投票であったり、例えば職場での雇用促進を訴えたり。自分の職場の体験談をブログで公開して、後塵に向けて発信してもいい。

 問題は短絡的に諦めるか、しぶとくやるかの二つじゃないだろうか。

 中学生なら話は別だ。大好きだったアイドルが結婚すれば、きっと人生が終わったような気がするだろう。

 しかしそれは思春期特有の悲観論だ。我々にはただの思い出で充分である。

 勤労に感謝するとは、自分が飯にありつけたことだけを言祝ぐものであっていいのだろうか。自分は飯にありつけました、ありがとうございます。神々はそんなことを言われて、気分を害さないだろうか。つまり我が国には数限りなく神がいて、彼らは多くの国民を救うことを望んでいるのではないだろうか。限られた人間を救うだけの神なら、そんなに沢山の神は必要ないではないか。

 祝福されるのは、我々の労働と、そこから紡ぎだされる未来であって、それには若者なしでは成り立たない。定年退職しても、退職金を支払ってくれる会社が倒産しましたでは、笑い種だ。

 労働を神々に感謝する日。そして未来を祈念する日。諦めずに祈ったり、身近な努力をしても、罰はあたらないはずだ。
posted by 天狗丸 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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