2009年10月25日

下請け殺しと自滅

 二股に別れたソケットを発明した会社があった。電球を大小二つ取り付けることで、夜の灯火を安全で快適なものにしたのである。

 その会社が大きくなり、二つのブランド名を持っていたが、昨年10月にその一つに社名を変更した。

 パナソニック株式会社である。

 花札とトランプを作っていた会社が、今や世界の任天堂である。

 どんな会社でも、黎明期はそんなものである。

 しかし日本の場合、それだけではない。

 小さな有名の大企業のしたに、下請け、孫受け、曾孫受けのヒエラルキーがいくつも重層的に重なり、我が国の自由主義経済は成り立っている。

 持ちつ持たれつ。企業間で相互扶助の精神をもって、戦後の経済は紡がれてきた。

 もっとも戦前の経済はどうかというと、幕末ブームを前にいってしまうのも何だが、談合と藩閥中心の経済であった。

 それが資本主義の黎明期に必要であったかどうかは、別として、薩摩・長州・土佐・肥前の四藩有力者につながる人々が、利権を争った。

 戦後に金権政治が始まったかのようにいう、司馬遼太郎仕込みの明治史観に陶酔する人もいるだろうが、木戸孝允だって、大久保利通だって、自藩の後輩の企業発展に便宜を図っている。

 資本主義経済が啓蒙的で、文化的で、万能だという思い上がりから、我々はいい加減目覚めるべきだろう。

 それが戦後、財閥を必要としない競争社会になった。GHQの占領政策はまんざらでもなかったのだ。

 ところが今度はその当時に発展した企業が、財閥になっているのだ。

 承知の通り、右も左も不景気である。そのうえに、サブプライムローン問題である。仕事を怠けても、儲からない口実には事欠かない。

 鼻くそをほじりながら、屁をこいて、いうのだ。景気が悪くて、儲かりませんな。社会人の新常識である。

 そんな社員が会社にパラサイトしているだけならいい。問題なのは、下請けに値引きを強制していることだ。

 価格競争と称して、原価割れ。いかに安いところから仕入れるか。企業努力と称した、下請けいじめ。

 単純に値段が安いことを前提にしただけの、とち狂った資本主義が暴走している。

1.商品の単価が安くなる。

2.製造者の収入が少なくなる。

 これは何を意味するのか。誰でも分かることである。圧倒的大多数の日本人は大企業に勤めていない。その下請けに勤めている。(もし自分の知るご近所が、大企業の名刺をもっている人だけしかいないのなら、余りに可哀相だ。つまり世の中のことについて、何一つリアルに学ぶきっかけがないということだ)

 ということは、自ずと次の展開が見えるだろう。

3.多くの製造者の消費が冷え込む。

4.日本全体の景気が回復しない。

 人体に例えると簡単だ。

 内蔵が大企業や官庁。手足が中小企業。指先がその家庭である。

 自民党は必死で内臓を温めていた。そうすれば末端まで血流が良くなると。

 ところが連中は世襲議員が多く、当然世間知らずのうすら馬鹿が多いから、方法を間違えた。

 延々と酒を呑んだのである。呑めば当然、内蔵が熱を持つ。しかしそれは血管を広げただけで、末端の血流まで広げ、結果的に全体の体温を下げることになったのだ。

 それでも先日まで、太郎ちゃんはいうのだ。大きなところから助ければ、自ずと小さなところが助かると。

 まあ、大雑把なこと。世間知らずのうすら馬鹿が飛びつきそうな考え方だ。

 自民党は今でも悩んでいる。日本酒がだめなら、いっそウォッカはどうだ。いや、女性にもうけるカクテルじゃないか。いやいや、実は甘酒で。

 自民党を飛び出して、結果内閣総理大臣になった鳩山由紀夫のアイデアはシンプルだった。

 例えるなら入浴である。末端をダイレクトに温め、全体に還元していくという方法。つまりは子供支援や、高校の授業料無料化である。

 その流れで、亀井静香が誰の物真似か、いつものだみ声でいう。

「公正取引委員会は下請けが話し合いをしたら、談合だと舌なめずりするが、(下請けが儲からないという)そういう状況には知らん顔だ」

 と憤慨した。

 おや? 偽悪趣味なとっちゃん坊やかと思いきや、まともじゃないか。返済猶予法案で何かとお騒がせだが、それは実はこっちサイドでものをいっているではないか。

 そうである。日本経済と書いて、「ちゅうしょうきぎょう」読んでいいくらい、我が国の産業を根底から支えているのは、中小企業である。

 中小企業をいじめるなんて、恩義だの、道徳だのという問題ではない。単純に両手足を切断しているだけだ。

 両手足を失っても、生きてはいける。

 ただ言いたいのは、胴体を生き残らせるために平気で手足を切り落とすような者が、果たして本当に真人間だといえるのかということだ。

 大企業であろうが無かろうが、我々と社会や経済と、中小企業は一体である。

 貸し渋り、貸し剥がし、不当値引き。いずれも未来を端した金で換金しているだけにすぎないのだ。

 亀井に一票。
posted by 天狗丸 at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 怒りの矛先 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月19日

他人を見下す社説

 『他人を見下す若者たち』というタイトルの本があった。心理学としての解説も面白く、示唆に富んでいた。

 他人を決して評価しない人々。そうすることで、本質を知っている(であろう)自分の自尊心は傷つかずに済むのだ。

 しかし実際は、他人の主張や作品を表層的にしか理解出来ておらず、また本質とは程遠いところしか自分は理解できていない。

 そうであるにも関わらず、他人を認めない、無神経に見下すのだ。

 成長期において、それは自然な心理現象であるという。

 つまり自分が世界で一番であり、それを認められない世界はどうかしていると、本気で確信するのだ。

 しかししばらくして、現実が覆い被さってくる。たちまちその大波に呑み込まれ、翻弄され、揉みくちゃにされ、ずぶ濡れになりながら、格闘が始まる。

 才能は孤独のうちに育ち、人格は人間社会のうちに育まれる。ゲーテはうまくいったものである。

 格闘の果てに、身の丈を知り、よりリアルな努力目標を見出し、堅実に努力していく。これが健全な成長プロセスである。

 つまり世界に比類なきオレ様が、他人とどう違うかを知って、そこで自尊心が原動力になって、努力するのだ。努力によってのみ、才能は開花するのだ。

 ところが、この現実の嵐に揉まれるプロセスを経ず、また回避してきた若者は、幼い万能感を持ったまま、年齢とともに自尊心ばかり成長させるという。

 他人を見下すことだけで叶えられる自尊心。当然、実体はなく、批判のための批判に過ぎない。

 我が国は政権交代を果たした。

 軍事クーデターも、軍部の監視でもなく、日曜日に葉書に書かれた投票所に行き、個人を特定することを証明して、用紙に記載した。その数をカウントしたところ、自民党以外の政党が与党になったのだ。

 良かった。もう「だから日本人はダメなんだ」的な自虐的な反日日本人の戯言を聞かされなくて済む。日本人も生活が逼迫してくると、政権にマジギレする。仮説ではなく、事実である。

 ところが大手新聞の社説は、前途多難であると、絶えず警鐘を鳴らしている。自民党政権であった当時から、まるでニュアンスは代わっていない。彼らに言わせれば、小泉が総理になった時も日本はファッショの影に脅かされたらしい。怯えていたのは、皮肉にも母胎の自民党だったが。

 驚いたことに、保守も進歩も民主党政権を批判することにおいては足並みを揃えている。我が国の将来を憂えて、深刻な口調で言う。時にはシニカルに吹き出す。

 ところが大体が、事件や問題のおさらいだけで、重要な舵取りが迫られるとか、真価が問われるとか、いつものフレーズで終了。読めたもんじゃない。主張したいのは、その程度のことか?

 確かに民主党が圧勝した。だが、連中は自民党の派閥政治に弾き出された連中と、社民党をあぶれた連中だ。

 その二つの政党が、過去のものであったことを考えれば、そこから出てきた連中が、過去の因習を丁寧に踏襲するとは思えない。少なくとも因習には、ひとかたならぬ恨みを持っているのではないか。

 今までの連中より、大分我々寄りなんじゃないのか?

 子供手当とか、高校の授業料無料化とか、我々以外に誰も望まないようなことを、公約にしてきたじゃないか。

 それをどうしていちいち揚げ足とるように、もしくは脅迫するように、眉をひそめるのだ?

 あ、分かった。狼が来るって言いたいんだろ?
 人を担ぎ出したいのは分かる。だが、まさかそれで、金を取る気じゃないよな?
posted by 天狗丸 at 07:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 怒りの矛先 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月18日

別姓は他人

 夫婦別姓が法的に認められるとか。どこまでそれが「問題」になり、どこまで「合法」なのか、よく分からない。

 分からないが、一つだけ分かっていることがある。

 名字帯刀はもはや特権ではないということだ。

 つまり明治憲法発布の段階では、地方士族の武装解除を目的として、ポツダム宣言受諾後は、平和憲法堅持か赤色テロ防止のためか、その両方かで、銃刀法が定められた。

 原住民を殺戮してできた近代国家と違い、我々日本人は少々利に聡いが、理性的で国民は武装していない上に、行政サービスによる治安維持に全面協力である。

 だから帯刀はしない。司法が充実しているから、決闘しなくても、個人の名誉は守られているのだ。

 ところが、問題は名字の方だ。

 姓名の姓の部分。これを婚姻によって、改変するのは、女性の個人の尊厳を損なうとか。そうなんだろうか。

 夫婦別姓については、てっきり勘違いするところであった。

 近代以前の儒教を道徳の中心にする社会では、別姓であったのだ。

 つまり妻はダンナの一族ではなく、死ぬまで両親の娘である。だから結婚はするが、自分の両親を敬い、彼らが死ぬと、葬儀を行い、墓を作る。そして自身も死語は、両親の墓に入る。

 つまり家族の構成員として、姓は婚姻しようがしまいが代わらないのだ。

 娘がそうであるだけではない。当然、母も祖母も、別姓なのだ。つまり父と祖父の墓に入るのだ。それだけ家父長を大事にしろというのが、儒教である。

 そういえば韓国ブームである。何といっても、彼らは儒教国家である。だからか。

 韓国ブーム=儒教ブーム=夫婦別姓。

 そう連想していた。世論も、政党も軽薄だなぁ。韓国ブームだからって、法律まで変えるなんて。

 ところが違った。

 何でも、姓を変えないことが女性個人の尊厳を守ることらしい。誰がいったんだ?

 そもそも姓とは、個人の尊厳とは何ら関係ない。

 日本において、姓を持つのは貴族であった。彼らは記紀神話の中に登場する神々であったり、功績のあった人々の末裔である。

 彼らにとって、氏姓制度こそが政治である。有力者の勢力マップを整理するためには、姓による分類が必要であった。つまり姓とは帰属先を示す記号であったのだ。

 そのことは武家社会でも顕著になっていく。自分の一族がどこに所属しているのか。戦場で高らかに名乗りあげるのは常識であった。

 義経としての自分を認めてくれよ、とはいわない。「源」の中でも、頼朝でも、義仲でもないぜ、オレ義経。どっからでもかかってこいや、という文脈である。

 つまり社会構成員のなかでも、名字を必要とする人々に名字が設けられた。

 その点、皇室に名字は不要であった。

 彼ら一族は、他に相対的な一族があった訳ではないからだ。代用がきかないために、区分けを不要であり、姓も不要であった。

 その点では庶民も同じであった。勢力争いは村単位で終始していたし、騒動になれば名字をもった連中が代行してくれた。

 ところが明治時代である。

 大日本帝国の行政区域に住居する者、日本国籍を取得する者はことごとく姓を申請することになった。

 田圃に囲まれた家は、田中を名乗った。

 鈴なりに実る木が近くにあった家は、鈴木を名乗った。

 村の和尚に知恵を借りて、それっぽい名字をこしらえて貰った。

 なぜ、そんなことをしたのか。

 武士や貴族の特権であった、名字を広く国民にも許した、というのは、明治政府が考えた屁理屈。

 目的は税収のための戸籍整理と、徴兵制整備のためである。まさに近代国家の目的に直結した施策であったのだ。そこに個人の尊厳や、自分らしさなんて微塵もない。

 社会システムの改変に伴うルール変更にすぎない。

 現に戸籍整理を行っていない、チベットでは個人名しかない。名前が重複しないように、二番目とか、エリアにちなんだ名前を付加していくことで、補足している。

 彼らの尊厳が蹂躙されているとするなら、それは姓がないからではない。人民解放軍の駐留と漢民族の搾取だろう。

 逆にいうなら、別姓によって守られる程度の「尊厳」なんてものがあったとして、それで満足できるような自尊心なんて、一体、どれほど意味があるというのだ。

 母親に連れられて買い物に来た子供が、お菓子だけを小分けにして貰って、自分で持つのを喜んでいるようなものではないか。

 世間知らずのイデオロギーおたくたちが、姓を変えることで何かを喪失するようだが、実際はパスポートや運転免許証の書き換えが邪魔臭いだけなんじゃないのか。

 待ってくれ。元より、そんなものが問題であったのか。

 儒教的に父親に孝行したいのでもなく、家族の構成員であること、つまり一族の大人としての責任を負うことを拒否し、「自分らしさ」という幻影を追っているとしたら、勘弁してくれ、だ。

 ハンサムで情熱的な白馬の王子様は、サンタクロース並みにフィクションなんだ。そうそう、それとかけがいのない、自分らしさ、だ。少なくとも、この三つはフィクションだ。

  「自分らしさ」などを語っているが、実際は単なる自意識過剰の、感性至上主義。その上、実際は世界に一つだけとかいいながら、その感性は月並みなのだから、眼も当てられない。

 体系化され、確立された「自分らしさ」など虚構にすぎない。あくまで相対的な中での「自分らしさ」じゃないか。

 当然協調性が前提である。

 協調性も、社会性もない、「自分らしさ」って、犯罪者の尊厳とどう違うのだ。

 過去に何があろうとも、殺人やレイプ犯罪が正当化される訳がない。それと同じように、「自分らしさ」を尊崇するのは、やはり邪教ではないだろうか。

 少なくとも別姓は他人である。

 よそから来て、よそに行く人である。

 姓に尊厳などない。あるとしたら、気取った姓を持つものと、月並みな姓を持つものに差違があるということになる。

 田中さんや鈴木さんより、中居さんや、草薙さんや、香取さんの方がカッコいいと思っているのだとしたら、どうかしている。イメージだけじゃないか。

 イメージを法的に取り扱うのは、まずい。まるでユダヤ人は陰謀めいているから、追い出すといった彼と同じじゃないか。それが文明社会といえるか?
posted by 天狗丸 at 09:05| Comment(1) | TrackBack(0) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月11日

親指シフトがないならば

 IT関連の新規アイテム(というか、新規概念を伴ったアイテム)が登場してきている。

 アイフォンやアンドロイドなどは、その典型であろう。また若干それるが、キングジムがテキスト作成に限定して、ポメラを発売している。

 いずれも画期的なことが起こっている。だが、強烈に物足りない。親指シフト・ユーザーたちが指摘するように、上記アイテムのいずれにも親指シフト環境が整っていないのだ。

 このブログは親指シフト(nicola)を使用して、テキストを作成している。(当然、脳裏に描いた文章がそのまま入力されるので、話題がとびすぎたり、上滑りする危険性を内包している)

 アイフォンの大きな画面や、アンドロイドのgoogleとの互換性の高さなど、垂涎であるし、ポメラにいたっては実際レジまで持っていきかけた。

 ところがアイフォンは圧倒的な利便性と、多彩なアプリケーションと、計り知れない伸び代を持っているにも関わらず、勝間和代氏が指摘するように、親指シフトにまるきり対応していない。

 アンドロイドは現在もただgoogleと互換性の高い、「ちょっとマニアックかもしれないケータイです、てへへ」的な売りの域を脱していないし、親指シフトどころか、キーボードの話題にすらならない。

 またポメラにいたっては、議事録を簡単に作成できることをうたい文句にしておきながら、親指シフトの倍の打数であるローマ字や、それよりは相対的に少なくない仮名打ちのいずれかを選ばないといけない。決して、親指シフトを選択することができないのだ。

 親指シフトユーザーにしてみれば、いずれもがギリギリとはかけ離れた場所でアウトになっているような気がして仕方がないのだ。

 もしアイフォンが親指シフトに対応した、外付けキーボードを販売したら? アイフォンは即時に買うし、同じメーカーのパソコンに乗り換えてもいい。

 でも、そうはならない。

 リアルでは親指シフトユーザーは合理的な機能について、半ば尋問じみた質問に応えないといけないし、デジタルでは新商品が登場するたびに、親指シフトに対応できるかどうかを精査しないといけない。

 親指シフトがないならば。

 そんなことを想像するだに、悪寒が走る。

 少なくとも外付けのキーボードができたり、キーボードがついていたら、親指化できないのなら、使用しない。

 このブログが年をまたいで、更新されなくなった時。

 それはきっと、親指シフトに対応してくれるアイテムが、とうとうなくなってしまったことを表すのかもしれない。

 親指シフトユーザーたちへ。今までに比べたら、現在などさほど逆境ではないかもしれないが、新たなアイテムについて、絶えず精査し、情報共有するしか方法はないのではないでしょうか。
posted by 天狗丸 at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月10日

ブログの時代ではないのかもしれない

 世の流行り廃りははやいもの。個人のホームページを作るのが、流行りかと思っている間に、ブログの登場。

 ブログの登場と一頻り騒いだら、SNS。その声が一段落したかと思いきや、今やtwitterである。更新がどんどん早くなっているではないか。

 その流行り廃りを語ろうというのではない。

 当ブログもご承知の通り、更新が随分少なくなっている。個人的な社会へのフラストレーションを、問わず語りに書くというのがコンセプト。

 民主党政権になって、自民党のように不愉快なことが少なくなったから、話題に事欠いているのだ。いや、嘘。

 単純にテキストを書くのが億劫になっていると同時に、エロ広告に閉口しているからだ。

 一通り自分が言いたいこと、不平不満は今まで書いてきたし、これからはもっとゆるいテンポで書いていこうかと思っている。

 だが、エロ広告だけは虚しい。

 この後にトラックバックで、ニートだったり、童貞だったりする人々が、女性タレント似の女性社長に性的な奉仕をして、報酬を受け取ったとかいう、男子中学生の妄想が書かれる。

 削除するのに少々疲れた。労力的にではなく、精神的にだ。

 このブログを閉鎖させるための手段としたら、こんなに有効な手段はない。正直、そろそろ潮時かとも思っている。

 かつて特別な資格を必要としない、ウェブ上でオークションができることを売りにした、サイトがあった。

 ところが結構早いテンポで人気は失速した。

 原因は何か。ユーザー同士の色々なトラブルだといわれているが、それ以外にも大きなものがあったと思う。

 つまり広告費を捻出することができない、貧乏会社の格好の宣伝場所になってしまったのだ。出品するのは業者で、締め切り数分前に希望価格へつり上げて、儲けが出るまで出品し続ける。

 かくしてユーザー同士のデジタルバザーとはほど遠く、貧乏臭い業者の使い回し広告のオンパレードになってしまった。そんなもの時間を割いてまで、見たいか? ユーザーが離れていくのは当然の帰結である。

 同じことがブログについてもいえるのではないだろうか。

 過去に何回となく、アホなエロ広告について、失笑を禁じ得ないできたが、結局何年経とうが、同じような中学生妄想コピーなのだ。

 リアクションを期待してこなかったが、単調なエロ広告のトラックバックにはうんざりなのだ。

 個人的には色々書きたいことがある。幕末明治の虚飾について。高速道路の無料化について。

 だが、その後に決まって、エロ広告を削除する手間が発生するのかと思うと、段々煩わしくなっている。

 それよりブログではなく、twitterで自分なりに短いコメントを発進していく方がいいのではないか。そんな気がしている。

 ああ、あえて、申し上げておく。この後は、先天的にアタマに何がしかの不都合のある人々の手による、精一杯の広告トラックバックである。ヒマ人はリンク先を辿るのも一興であろう。自身のアタマの悪さに気付かないでいられるとは、何とも羨ましい限りではないか。
posted by 天狗丸 at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月27日

愛国・革命・イデオロギー

 プチ・ナショナリズムなるものが流行しているとか。

 確かに「立ち上がれ日本男児よ」と書かれたTシャツを着ている黄色人種の男性がいた。彼の国籍は日本かもしれないが、シャツのセンスはほとんど上海の日本領事館を襲撃した時の中国人である。

 基本的にイデオロギーは食えない。食えないばかりではない。他人の搾取のために活用される。右だろうが、左だろうがだ。

 進歩を自称する連中は個々の文化を平気で蹂躙できる無神経な馬鹿だ。そして保守は個々の文化をほとんど理解できない馬鹿である。

 保守派に並ぶ学者が書いたものの中で、時々散見されるのは、我が国の文化の特徴に対する、ピンぼけした自己陶酔である。

 その典型を上げるなら、本地垂迹説である。

 つまり神道の神々の本当の姿は、仏教の菩薩や如来であるという説。これで日本の固有の文化たる神道が、世界宗教たる仏教とつながることができた。日本独自の文化だというのだ。

 ところがこれは神道のアイデアではない。神道は改良されることを嫌う。我が国の神々はお手軽簡単に、参拝されることを嫌う。神道の教義とは、禊ぎであると同時に、神代の昔と同じ様式で、参拝され、古式に則り舞いやお供えがなされる。

 つまり神々に姿を変えた仏というアイデア自体、大乗仏教のアイデアであるのだ。

 その証拠に中国では道教の神の一人が、菩薩の変化として説明される。老子が西にいってブッダになったとも信じられていた。

 チベットにもボン教の神々に菩薩が混じる。

 つまり本地垂迹説は日本人が独自に考えついたものではないのだ。個々の文化とリミックスが起こった一つの事象に過ぎない。

 沢山、我が国の文化の特徴はある。だが、それをもって我が国が他国より優れていると考えるのは危険だ。

 ヒトラーが登場する以前から、ドイツではありもしないゲルマン民族の神話が捏造されていたのだ。正統性のない神話は正統性のない権力を捏造する。

 保守がこのザマだから、進歩に至ってはもう一回り悲劇である。

 いかにも平和を愛しているかのように言うが、連中の平和は大国が保証してくれる、奴隷の平和である。その証拠に共産国家中国に、反旗を翻したチベット人たちやウイグル人の人権をどういっているか。

 共産主義を標榜するのが正しいのであって、共産主義を批判するのが悪という、幼稚な発想に立脚しているだけだ。

 チベットやウイグルがどんな文化を持っていようが、大国さまがお気に召されないのであれば、食べていけないのだから、捨てよと。生きていたければ、大国さまのいう通りにしやがれ。

 ううん。貧乏くさい奴隷根性。それが社会正義だとでもいうのか。

 待て。待て待て。大国さまに守って貰えば、食っていける。え? それが連中の理想だとするなら、もう日米安保条約に調印した段階で、実現したんじゃないだろうか。

 うんざりしている。右翼にしても、左翼にしても。連中がいっているのは、所詮、屁理屈であって、我々の生活をいくらかマシにしてくれるかと期待したら、確実に肩すかしを食らわされる。100%の確率で馬鹿をみるだろう。

 どちらも我が国の文化や生活について、表層的な理解しかできず、軽薄な結論に飛びついていないか。学者を僭称する連中がこんなんだから、「日本男児云々」というTシャツを着ている男がいても、当然だろう。まあ、軽薄な憂国烈士だこと。

 虱をひねって当世を談じる。ヒマな貧乏人が世の中の悪を暴く。ああ、やっぱり連中は胡散臭い。

 宣教師ルイス・フロイスによれば、説教を終えても、市井の人々は、原罪や天地創造について、しつこく質問してきた。宣教師たちの内省的な祈りの時間にも、邪魔して顰蹙を買っている。

 戦国時代末期にローマ教皇に面会すべく、遣欧使節団が海外に行った。

 十代の侍の徒弟たちは、ヨーロッパの道程で奇異の視線にさらされる。夕食での立ち居振る舞いが、記録されている。

 彼らは小食で慎み深く、信仰心に篤かったという。

 長旅で疲れていた上に、元々粗食であっただけなのであろうか。

 幕末にアメリカに使節団が送られる。彼らもまた同じく、統制のとれた集団行動と、言動で驚かれた。

 我々の祖先は理知的で、いささか小食であったらしい。

 虐殺を好み、人肉を食らう野蛮人でも、カルトまがいに皇室を信仰し(そもそも皇室は信仰するものではなく、敬愛するものだ)、外国人なら平気で殺害するような殺人鬼でもない。

 思慮深く、好奇心にあふれ、ちょっとでお腹一杯になるのだ。他国より優れているとしたら、こうした特徴が先に紹介されるべきではないだろうか。

 いわんやそもそも日本男児って、何語だ? 何を出典にしている言葉だ。たけるでもなく、ますらおでもなく、男子というのは漢語表現である。少なくとも、日本語にはない表現ではないか。

 愛国者気取りも、平和主義者も、どちらも実は軽薄じゃないか。まるでポップソングで腰でも振るノリである。

 だったら、そんなに深刻な口調で、一丁前の口をきくんじゃないよ。
posted by 天狗丸 at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月27日

イカす陰謀説

 仕事でwebを使っていた。無料サービスで得意先がデータを送ってきたので、そこからサービスを活用する。

 広告で収入を得ているのだろう。

 ところがある広告に目が止まった。民主党の真実と題する文書がPDFで流れているのだ。

 いいねぇ。日本で最初に政権公約なるものを、知らしめた政党の真実。色々知りたいところだった。

 ダウンロードしてみて、愕然とする。

 何と、衝撃の真実が紹介されているのだ。かの政党は何と、右翼からの支援を得る一方、日教組からも支持されている。そればかりではない。

 朝鮮総連から支持されているかと思えば、民団からも支持を受けているという。

 そのチャートを見て、愕然となった。

 これが事実であるとしたら、もう野党なんかじゃないじゃないか。いや、これに比べたら、与党の支持団体がいかに脆弱か。

 ほとんど陰謀説。あ、言うてもた。

 右翼にも日教組にも、総連にも民団にも、支持される民主党って、敵なしじゃないか。国政を任せて安心じゃないか。

 草の根ネットワークとかいう、連中など消し飛ぶほど、民主党は広く意見を取り入れるではないか。みんなが幸せな国を実現してくれるのではないか。

 ただし一定の前提が必要である。

 もし上記の文書が真実であればの話である。

 偏狭な与党より、段違いに支持者が多いではないか。今回の選挙では圧勝であろう。

 ところが、この文書がでっち上げられたものだとしたら、どうなる? 我々の良識が疑われるだろう。

 まるで世界征服をロシア語で説明した、ユダヤ人差別をする帝政ロシアでかかれた、ユダヤ人長老会議(ユダヤ・プロトコール)なみに胡散臭くないか。

 中国語で戦中に出たタナカ・レポート(タナカが天皇に世界征服の方法を報告したと言われる文書)みたいじゃないか。

 ううん、未だにそんなことがありえるのか。またまた大量破壊兵器の存在を想定して、イラク人の血液を大地にぶち撒き続ける気か?

 インターネット環境の整備で、既存のメディアが権力に屈するのに対して、自由に発言するから、人々は権利と平等に目覚め、自由で幸福な社会を実現するというのが、十年前の読みであった。

 んで? どうなった?

 民族主義の過激派はwebを介して、世界に散らばる同士に奮起を呼びかけている。

 我が国では肥大化した意識の垂れ流しと、不毛な揚げ足取り議論。広告費すら惜しむ貧乏会社の日雇い求人。いじめ目的の学校裏サイト開設。

 理想とした未来とは、ちょっとピントが違わないか?

 民主党の陰謀。かつての細川ボンちみたいに、政権を交代し、与党よりいくらかましな政策を実行しようとすることと、議員年金の確保以外に、何かを企んでいるとしたら、逆に大したものである。寄せ集めにしては、上等である。

 充分、与党じゃないか。

 我々が嫌悪すべきは、陰謀説ではない。陰謀説を語る輩ではないだろうか。ユダヤ人が悪いから、悪いとかいう、イッちゃった論理ではない。ユダヤ人はユダヤ人だから悪いと、頭の悪いことを言い出す輩の声のデカさではないだろうか。
posted by 天狗丸 at 22:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月22日

ユーザーの品格

 wordやExcelはやはり必要だ。でも高いから。

 そんなことをぼやく知人がいたので、笑いながら、Openofficeをすすめた。大概の人が、聞き慣れない名称に困惑し、警戒する。

 しかし今まで紹介した人で、不満を漏らす一人もいない。

 かつて一太郎とwordが全面対決するという時代があったが、結果としてwordが標準装備という強みをもとに、制した。

 ところがOpenofficeである。

 聞けばoffice2007とこれまでのofficeソフトとの互換性は、同社の製品とは思えないくらいひどいものであるというではないか。

 経済学者が評していたなかで、面白い意見があった。それはapple社の戦略である。

 十年前に買ったMacで作ったファイルでも、初代のiPodに入れた曲でも、現在、何ら支障なく使える。ソフト面を完全にカバーできるビジョンをもって、作られたアイテムやサービスであるというのだ。

 すっげえ。Windows95が発売されて干支が一周したから、officeも違う時代にきましたとか言う、無茶な会社とはエラい違いである。

 何よりも頼もしく思っているのは、会津若松市である。

 さすが武士道を重んじ、最後まで明治新政府と戦った気風を持つ末裔である。

 なんとここでは、Openofficeの使用を推奨し、書類を同アプリケーションで受けつけているというのだ。

 その理由は色々あるが、結局は無料だからというのだ。市民や市政に費用を発生させ、アメリカ人に日本の行政に関する書類作りのためにロイヤリティを払わなくてもいいではないかというのだ。

 当たり前のことのようだが、冷静に考えて欲しい。

 地元の市町村のサイトに行き、申請書類をダウンロードできるか試してみれば分かる。驚くべきことに、ほとんどがwordかExcelである。国産のワープロソフトたる、ジャストシステムの一太郎で受け付けているところなど、皆無ではないだろうか。

 つまり国産のアプリケーションを使うことは、癒着の原因にもなりかねない。だが、アメリカさまなら、日米和親条約以来のつきあいだもん。問題ないんじゃないの? という程度である。

 小市民的正義。なんちゃって正義。見えてなきゃ平和である。

 会津若松。コスト削減といいながら、近隣に右ならえではない気概を持つ町。

 国家の品格でも紹介されていたとも思う。ならぬことはならぬのです。政党を支持するとか、国政に打って出るとか、野暮なことをいうお祭り屋がいる。

 それに対して納税者の税金から出費を押さえて、行政サービスを向上させようとするところもある。

 少なくとも、その気概はもう少し評価されていいのではないか。彼の地をバカにできるほど、我々は高潔だったか?
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2009年06月30日

強さのはき違い

 まずは相手を脅しておく。そうしておけば、後の力関係が有利になる。こちらが普通に接していても、過剰に良心的に優しさを感じ取ってくれる。

 というのが、やくざの処世術らしい。コンビニで売っている類の、男性的な世渡り(世渡り上手が男らしいかどうかは、まず置く)ムック本に載ってそう。

 さっすがぁ。オツムてんてんな連中が、勿体つけて語りそうな、おサルさん社会のルールじゃないか。

 ついでに、それだけで我々人類が旨くいく可能性は、ほぼ皆無である。脅した本人が陶酔しているだけで、なぁんにも解決しないばかりか、問題を陰湿に潜在化させているだけ。

 もっともやくざ屋さんに、潜在化なんて言っても、コインランドリーを想像されるくらいだし、やくざの処世術を知ろうとしている人間の浅はかさはどっこいどっこいである。

 国立教育政策研究所の調査で、中学生の八割がいじめの被害者か、加害者になっているという。

 いじめる子供と、いじめられる子供の入れ替わりも頻繁に起こっているため、特定の生徒を注意していたのでは、対応できないというのだ。

 ううん。まるでおサルさん。恫喝し、威圧していた生徒が一転して、いじめられる側になるということか。

 というか、八割もの生徒がいじめに関係しているということ自体、相当ショックだ。どんだけいじめが好きなんだ、あいつら。

 大人だけがいじめに怯えていて、中学生はウェルカムなんじゃないのかと疑いたくもなる。

 勉強しろとはいえた義理はないが、異性の視線や部活や、お笑い番組やら、夢中になることは無限にあるだろう。いや、自分のなかで一番面白いものが見つかるのが、中学時代ではないか。この時期に見つかったものが、生涯の楽しみであったり、人生を変えるものではないのか。

 それがいじめで汲々しているだなんて。いや、八割も乗り遅れてはなるまいと、必死に取り組んでいるとしたら、底の知れた人生である。

 仲良く、平和であることを強制された結果、自分が不条理と感じることも、欲求も衝動も押さえ込んで、人殺しをするマンガを読みふけるのが、実態だとしたら、哀れ。惨めな十代である。

 大人社会の縮図であるとか何とか、とかく教育関係者は言いたがるが、ひどい言われ様ではないか。少なくとも大人社会で八割の人間がいじめに関わっていると、社会活動は破綻する。というか、成り立たない。というか、ヒマすぎ。

 実社会はそんなに単純じゃない。

 ノリが悪かろうが、印象の悪い態度を取ろうが、それがその人の人格に直結して、生涯にわたって判定するようなものではない。

 もしそんな会社があるとしたら、お見事。ご時世柄、倒産するのは見えたものだ。

 いじめは社会問題であるが、加害者も被害者も容易に反転してしまうというのは、つまり秩序として成立していないということではないだろうか。明らかに混乱していることである。

 そして、この混乱こそ平和の対極にあるもんじゃないだろうか。

 ゆとり教育の結果、中学生たちがクラスのムカつく相手をいたぶる方法を熟慮していたとしたら、滑稽だ。我々大人は実社会を知らない、純粋培養の薄らバカどもにそそのかされて、個性だ、自分らしさを見つけることと称して、いじめを推奨する環境を整えていたのだ。

 いや、いじめこそが彼ら餓鬼道の本当の姿……いや、言い過ぎた。撤回する。

 もとい、我々は少々薄らバカ教師どもの百鬼夜行に、少々無関心だったのかもしれない。

 そして周囲を脅かして、目一杯背伸びしたいじめっ子が、足下をすくわれて、いじめられても当然だろう。背伸びしたことが悪いのではない。おサルさん方式で背伸びする事で、人間社会を世渡りしようとしたことが責められるべきだ。

 ましてや、いい大人が幼稚な任侠処世術を、真に受けようとするなんて。幼稚な偽悪である。それこそ、空気を読めていない証左だ。いじめないから、勘弁してくれ。
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2009年06月28日

不安の対価

 どうしてもだ。どうしても、我々の国は儲からないのだ。何やっても、景気は悪いまま。

 誰かが、寝ぼけ眼をこすっていう。景気の底は見えましたと。聞いている我々は思う。またかよ。さては夢でボディコンの姉ちゃんでも見たか。

 一体、何を根拠にそんな寝言をいっているのだろう。もうここまでくると、信憑性で比べるなら、宇宙人の存在の方が信じられるのではないだろうか。

 結局、定額給付金について、さんざん揉めておきながら、誰も結果をリサーチしていない。レポートは有権者に内緒だと? 本来、政府の金なんて物はないんだ。我々の積立金だ。それが民主主義国家じゃないのか。

 一万二千円で日本の景気が買えると、議員バッチをつけたお昼寝組は本気で思っていたらしいが、頓珍漢もいいところ。

 結局、何も変わらず、次の泥仕合で国政だのなんだの、結構な御託をまくしたてる。それも呑まずに。あるいは朝から一杯ひっかけてだ。

 ところで何で消費が冷え込んでいるのか。肝心なことを忘れていないか。

 誰かが天下の周り物を、タンスにストックしているからじゃなかったのか。

 定年退職をした高齢者は実は、結構金を持っているという。じゃあ、彼らをくすぐって、金を出させればいい。だが、逆さにして振っても、彼らはなかなか金を出さない。

 なぜか。

 北風が吹いているからだ。つまり、老後が心配なのだ。老後が安心できれば、余剰なお金を贅沢に使ったり、中には気前よく寄付してくれたりするハズなのだ。

 待てよ? 世界でも屈指の長寿命を我が国は誇っていたのではないだろう。ご長寿に関しては、我が国は一家言もっている。医療は技術はもちろん、搬送するためのサービスは地球上でもっとも優れた体制ではないか。

 六歳で射撃の訓練を受けて、二十代前半で、同じく少年兵にこめかみを撃たれて死ぬような人生ではない。三十代で独身だったり、職にありつけなかったり(それはそれで深刻だが)するが、成城は安定している。自民・民主がいうほどの危機など、来ていない。

 来るとしたら、議会制民主主義を万能視しない、強力な全体主義である。

 じゃあ、高齢者は一体何が心配なのか。

 実は年金なのだ。まさか、老後の蓄えですからと巻き上げておいて、箱物とリクライニングチェアに使用するのを、政府が黙認しているとは思いもしなかったのである。

 年金が破綻する。相互に助け合いを目指してきた、戦後の平和好きな日本人のモラルなんて、ここ十年ばかしで木っ端微塵である。

 そして誰も言わないが、社会保険庁は高齢者の安心を奪ったというだけではない。彼らが安心と同時に財布を緩めるという、シュチエーションを台無しにした。

 それに起因して、社会不安と経済成長の低迷、ひいては経済活動一つ覚え国家を衰退させているとするなら、ひどい。古い表現だが、国賊である。

 汗水垂らして、明日が良くなると思って働いてきた、鈍くさいくらい寡黙な人たちから、金をネコババしていたというじゃないか。

 だが、社会保険庁に右翼団体が殴り込んだという話はついぞ聞かない。ちょっと彼らの頭で理解するには、難しかったかな。

 結局、次の選挙である。次の不正である。

 犯人が誰か。なぜそうなったのか。

 だぁれも教えてくれない。この虚無。

 じゃあ、年金は本当に確保されているのか。確認する書類が届いたが、最終的に完全に照合できているのか。

 舛添大臣が口を開きかけたのに、マスコミは知らんぷりをして、あの弁護士知事か、たけし軍団の人にマイクを向けているのではないか。

 何だ。流行だけでいいのか。

 そうそう。鳩山だろうが、麻生だろうが、どうでもいいが、マイケル・ジャクソンが死んだって? 忌清四郎の次ってか。音楽業界大騒動やね。

 マスコミもそんな堅い顔すんなよ。言ってることは、

「今年のおしゃれ水着は大胆な白に注目!!」

 とかいう連中と、大差ない。声のトーンが低いか、高いかの違いだ。

 社会保険庁が奪ったのは、経済的には端金だろう。しかし失った信頼は大きい。そして信頼なくして、近代商業は成り立たないし、近代民主主義も成り立たない。

 なぁんか、我々は今、結構デカい落とし物しなかったっけ?
posted by 天狗丸 at 08:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 怒りの矛先 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする